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宝暦治水

長良川が伊勢湾にそそぐ木曽三川の下流域は、古くは長良川、木曽川、揖斐川が網状に流れて洪水のたびに川の形を変えるといった有様でした。

 

江戸時代初期の1609年には、木曽川の左岸に尾張の国を取り囲む形で約50kmにもわたる大堤防が築かれ、「御囲堤(おかこいづつみ)」と呼ばれるようになりました。「御囲堤」は、西国勢力の侵入を防ぐという軍事上の目的を持つとともに、尾張の国を洪水から守るための役割も果たしました。

 

しかし、美濃の国では、対岸の堤防より3尺(約1m)低くしなければならないという制限があったため水害がしきりに起り、この地域の「輪中(わじゅう)」の形成をますます発達させることになりました。

 

輪中とは、水害に悩まされた人々が集落や耕地を洪水から守るために、その地域全体を取り囲むように堤防で囲んだ地域をいいます。

 

ここに住む人達自身の手で造られた輪中の歴史は、洪水との闘いの歴史でもあります。

輪中の家

宝暦治水工事

1753年(宝暦3年)、徳川幕府は琉球との貿易によって財力を得ていた薩摩藩を恐れて、毎年氾濫による被害が多発していた木曽三川の分流工事を薩摩藩に命じる。工事費用は薩摩藩が全額負担、大工などの専門職人を一切雇ってはならないとした。

露骨な弾圧政策に薩摩藩は幕府への反発を極め、このまま潰されるくらいなら一戦交えようという過激な意見まで噴出したが、薩摩藩家老平田靱負が「民に尽くすもまた武士の本分」と説破して工事を引き受けることとなり、平田は総奉行となる。

40万両にも上る工事費用を捻出するため大坂豪商から借金を重ね、幕府へもたびたび専門職人の雇用許可を要請するも許可は下りず、工事のやり直しを命じられることがしばしばあった。工事に派遣された薩摩藩士達の過労や伝染病による死亡が相次ぎ、また幕府に抗議して切腹する薩摩藩士達も続出した(この時には、本来監視役のはずの徳川方からも、薩摩藩に同情して抗議の切腹を行う武士が二名いたほどである)。この件に関して、平田は幕府との摩擦を回避するため、切腹した藩士たちを事故死として処理している。薩摩藩は最終的に病死33名、自殺者52名という多大な殉職者を出している。

分流工事は着工から1年3ヶ月ほどでようやく完成したが、その後平田は死去した、享年50。遺体は山城国伏見の大黒寺に葬られ、遺髪は鹿児島城下の妙国寺に埋められる。藩主島津重年も心労で、後を追うように翌月に27歳で病没している。

薩摩藩が要した費用は約40万両(現在の金額にして300億円以上と推定)で、そのうちの22万298両が大坂の商人からの借入金であった。返済は領内で徴収した税から充てられることとなり、特に奄美群島のサトウキビは収入源として重視されたため、薩摩藩は住民にサトウキビの栽培を強要し、過酷な収奪を行った。現地では薩摩藩への怨嗟から「黒糖地獄」と呼ばれた。

 Wikipediaより抜粋

石田の猿尾

木曽川に突き出した2本の石で築かれた堤防で、猿の尾のように細長く伸びている様子から猿尾と呼ばれている。上流側が150間猿尾、下流側が200間猿尾とも呼ばれる。

木曽川の対岸にあった佐屋川へ水を押し流し下流への水量を減らすことを目的とし、宝暦治水によって1754年(宝暦4年)に着工し翌年完成した。工事は材料を木曽七宗(現在の七宗町)から運び、薩摩義士により行われた。 Wikipediaより

薩摩堰治水神社 大薮洗堰跡

千本松原 日向松

薩摩藩士たちが、油島の背割堤に植えた松は、日向松(ひゅうがまつ)でした。日向松は文字通り、宮崎県産の松です。 1,000km 以上隔てた岐阜と南九州を行き来するには当時の交通手段では、片道25日間、往復50日ぐらいの日時を要したと思われます。

 

松苗なら美濃地方でも調達できたはずなのに、資金が底を突き一両の余裕も無かった中で、わざわざ駄賃を使って何ゆえ遠方から松の苗を運んだのか。小説『霧の木曽三川淵』の著者・瀬戸口良弘氏は、幕府の役人が『薩摩より松苗を持参致して植林を致せ』と下命したのに違いないと推測しています。そして、なぜ日向松なのか?

 

美濃から薩摩に行くには、陸路を徒歩で関ヶ原~滋賀~京都を経て大阪に行き、大阪からは船(帆船)で細島港(現在の宮崎県日向市)着、細島から再び陸路を徒歩で、西都~都城~国分~鹿児島着の道順がありました。

 

瀬戸口氏は、以下のように推測します。松苗を採取しに国許に向った小奉行ら一行は、大阪から細島港に到着すると、佐土原藩(現宮崎市)国家老の屋敷に宿泊することになり、思い切って松苗のことを相談しました。

 

島津藩とは親戚筋に当る佐土原藩は、今回の美濃の治水工事の下命を気の毒に思っている矢先でもありました。すでに時間的余裕はない、しかも資金も底を突いている状況を察した佐土原藩国家老は、佐土原藩士に命じて細島港までの道中の道端に自生している山苗を採取させ、細島港より桑名城下の『七里の渡』に直接積で運ばせたというのです。薩摩藩士たちは、届いた松をホロホロと泣きながら植林しました。ワシモホームページより抜粋

治水神社

宝暦治水工事の責任者、薩摩藩家老平田靭負(ひらた ゆきえ)を祭神とする治水神社。

昭和2年の着工以来、実に10年の歳月をかけて完成しました。決死の覚悟で国土の安全を図り、災害にあえぐ輪中の人々を救ってくれた義士たちの偉業は広く共感を得たのでしょう。その檜造りの荘厳な社と緑陰を宿す松林には、人々の義士への感銘が宿っているようです。

神社の北西側、朱色の隼人橋を渡ったところには治水観音堂があります。御堂には治水観音堂大菩薩の御像と、その慈翼に工事の犠牲となられた薩摩義士の位牌が祀られています。海津市ホームページより抜粋

大巻薩摩工事役館跡

薩摩藩は、安八郡大牧新田豪農鬼頭兵内の屋敷を借りて、宝暦治水工事の同藩の主要な役館とした。これを元小屋と称し、その出張所を出小屋と称した。この役館には、総奉行平田靱負正輔及び副奉行伊集院十蔵久東他20数名がいた。工事終了直後に平田靱負が割腹自殺をしたのもこの場所である。

役館であった鬼頭兵内屋敷は、広大な敷地を有し低湿地のなかでも一段高い場所にあった。

その後、同家が没落して、当時の面影はなくなったが、かつての勝手場あたりと推測されているところに、昭和3年(1928)5月6日、薩摩義士顕彰会により「平田靱負翁終焉地」の記念碑が建立された。 岐阜県ホームページより抜粋

宝暦治水之碑

金廻から伊勢湾河口付近までを工区とした四ノ手には、近世の治水工事で最大といわれる難工事が行われた油島締切(喰違)堤があります。そしてその一角には、その偉業を讃える宝暦治水之碑があります。

宝暦治水に協力を惜しまなかった西田家の祖先

西田家は代々、庄屋を務める名家です。明治生まれの喜兵衛は、11代当主。近世最大級の難事業、宝暦改修(1734~35)の顕彰に生涯を捧げ、「宝暦治水之碑」建立に尽力しました。

喜兵衛の生まれた桑名郡戸津村(現在の桑名市)は、宝暦治水が実施された揖斐川沿岸の村。この改修は薩摩藩による御手伝普請。洪水が多発する木曽三川下流域の抜本的な改修を目的に、広範な地域で改修事業が行なわれました。

当時の西田家当主は桑名藩松平家の領分桑名郡北部地方の代官職であったことから、工事に深い関心を寄せ、自ら進んで住居を薩摩藩士の宿所に提供し、藩士数名のほか、足軽、下人合わせて20余名を宿泊させるなど、協力を惜しみませんでした。

また、この工事が関係の村々の利害に関するために、藩士たちと工事現場に赴き、土地不案内な総奉行平田靱負(ヒラタユキエ)の良き相談顧問方として協議にも参与助言。昼夜兼行で働く藩士の安全と、一日も早い工事の竣工を祈念して、朝な夕な霊験あらたかな多度神社に参拝することが、喜兵衛の日課でもありました。

当主は、宝暦五年、工事が完成し検分が終わると同時に切腹して果てた総奉行平田靱負をはじめ、工事の途中で自刃して果てた藩士たちの言動や、自殺した原因の顛末を丹念に書き留め、「薩摩藩の恩、忘るべからず」とその記録を子孫に遺しています。この記録は、代々、西田家の家宝として秘蔵されましたが、封建の世という江戸時代の時勢から公表されることはありませんでした。

しかし11代当主喜兵衛のとき、明治政府に不満を持つ民衆の動乱(伊勢暴動・明治9年)がこの地域をも襲い、公共施設や庄屋屋敷・商家などが焼き打ちに遭いました。

先祖代々守ってきた宝暦治水の記録も灰と化し、喜兵衛は顕彰活動を通じて広くその偉業を伝えることが自分の使命と思えたのでしょう。以後81歳で亡くなるまで、顕彰運動に心血を注ぎました。

時の総理大臣を招き、盛大に行なわれた除幕式

かねてより義士の事蹟顕彰を志した西田喜兵衛は、長年にわたり家業を賭して事蹟調査と顕彰に奔走しました。そうしたなかで、改修工事による地元住民への恩恵の深さが明らかにされると、喜兵衛は記念碑建設に精力を傾けることに。上京を幾十回も重ね、やっと記念碑の建設が実現しました。

碑の除幕式は木曽三川分流がほぼ完成した明治33年4月、完成を祝う祝賀式の後、時の総理大臣山県有朋、内務大臣西郷従道のほか、数多くの高官の参列を得て厳粛にしかも盛大に挙行されました。

碑文は宝暦治水の偉業と薩摩藩士の辛酸を語り継ぎ、碑裏面には八十余名にのぼる薩摩義士の名を記しています。

ひ孫にあたる前ご当主によると、西田家では宝暦治水之碑を「記念碑」と呼んで、約70年程前までは毎月1回舟で揖斐川を渡り、家族で碑の周辺の清掃を行うなど先人への感謝の心を大切にされたとのことです。参考文献 多度町史


総奉行平田靭負の指示で、工事完了を藩主に報告するため江戸薩摩藩邸に赴く手はずになっていた副奉行の伊集院十蔵は、総奉行が割腹して死亡したことを知るや

『治水工事の一部始終を薩摩にて話を致してはならぬ、薩摩の衆は血気盛んな反骨者ゆえ一件が刺激になって、幕府に対して反旗を翻すやも知れぬゆえ。』 伊集院にはそうした危惧の思いがあった。 

このことが、治水工事に従事した薩摩藩士の口を閉ざすことになり、悲しくも後々の世に至るまで、美濃における薩摩義士の功績を隠し、藩の記録簿にも記載されず、闇に葬り去る結果をもたらしたのであった。

薩摩義士の偉業と苦難の事実は、明治33年(1900年)に『宝暦治水之碑』が建立されるまで、 140数年の永きにわたって闇に伏せられたままだったのです

瀬戸口良弘氏著書『霧の木曽三川淵』より

碑文の解説文には、里人が昔から洪水で苦しんできたこと、幕府は薩摩藩に治水工事を命じ、藩の財産三十万両を支出して工事を成したこと、難工事であり多くの困難を克服して完成を見たこと、これによって輪中地帯の水渦は減少したこと、のちの三川分流計画の基礎になったこと、事を終えた総奉行平田靱負は程なくして自刃したこと、他に前後して自害する者数十名あったこと、しかしその死因については記録なく明らかでないが、『工事の悩みは意外に多く、命令を果さずば止まぬの気概に満ち心痛の余りやむなく死に至った』と里人が言い伝えていること、百五十年を経た今でも里人は偉業を讃えることを忘れないでいること、などが記されています。

 

ここに至って初めて、薩摩義士の偉業と苦難の事実が公になったのでした。

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    辻 のどか (火曜日, 07 11月 2023 11:26)